竹内亮監督の「南京の地下鉄で・・・」というTwitterが私のTLにも回ってきて、
まさかこんなすごい方が中国で活躍されているとは知らなかったものですから、見てみました。
日本語字幕付きです。 1時間程度。
しかし、こんなものすごい作品をお金も払わずに見てしまってよいものだろうか、というのがまずあります。(なので、広告は長めに見ました笑)
近くて遠い国、中国のそして今世界で一番有名かもしれない中国の都市「武漢」で、現地の人はどう暮らし、何を感じているのかを観ることができる作品です。
昨日
ショッピングモールで創作系のカルチャースクールを開いていた店主の女性が、更新料が支払えずお店を畳むことになり、閉店作業に立ち会う場面。
ドリルで床がどんどんはがされていくのを見て、店主がこらえ切れず店の外へ出てしまいます。
「本当はもう向き合えてるんだけれど、実際に目の前にすると辛い・・・」
と涙ぐみながら語る店主。
他のエピソードに比べたらやや小粒かもしれませんが、ぐっと来たシーンでした。
「自分は平気だけど、思い入れのあるモノが目の前でなくなっていく」
いやいや、あのコロナにかからずに今日まで元気なんだからいいんじゃない、と思う方もいるかもしれません。
確かにこれって正論で、言ってしまえば彼女の涙もYouTubeの先の出来事でしかないのかもしれないんだけれど、
私たち日本人もかつてテレビの前で同じような経験しませんでしたか。
13年の夏、NHK連続テレビ小説『あまちゃん』で。
『あまちゃん』劇中でも、みんなが大切にしていた「海女カフェ」が津波の影響で破壊され、彼女たちの夢もまた壊されました。(最後には復活してたけど)
その原因がなんであれ、フィクションであれ現実であれ、誰かの夢が跡になっていくってのは、心に来るものがあります。
今日
実際に患者に向き合った看護師さんの話も印象的でした。
語るまでは明るくふるまう彼女も、新型コロナウイルスのもたらす「死」について語るときは涙を見せました。
たくさんの遺族が遺品を持ち帰るとき、斎場に長い列ができるとき・・・・
そして、変わらぬ今を生きる「私」。
最初の店主の人もそうですが、自身をはじめとした変わらなかったものとと新型コロナウイルスによって変わってしまったもの 受けた影響が必ずしもイコールではない、という現実が、より彼女たちを苦しめているのではないでしょうか。
日本でも同じです。実際、コロナ禍の最中において変化のあるものと変化のないもののギャップに苦しむ方は多かったのではないでしょうか。
飲食店にせよ、ライブハウスにしてもそうです。
迎える側は元気、店もいつでも出迎えらえる。でもお客が来ない。そして赤字だけが増えていく。
例えば、ミサイルが飛んできて、店が全壊した。大地震で自分自身の身の回りに物質的ダメージがあった。
これならば、自身と周りのギャップが揃えられているのでねじれは起きません。
でも、この全世界においてこのコロナは違いました。
武漢で戦った彼女もまた、そのねじれの犠牲者なんだな、と。
明日
最後はもうすぐ結婚するカップルの話をしたいと思います。
当然、このドキュメンタリー作品の主題である「武漢に住む普通の人たちの話」をするときに、前を向いて歩いているこのカップルの話ははずせないでしょう。
彼女のウエディングドレスの試着を前にし、「超級好看」(めちゃいい)と語る彼氏。
「自分もタキシード着ないといけないっすね~」とはにかむ感じが素敵。
「この騒ぎが落ち着いたら、日本のディズニーランドに行きたい!」
「僕は彼女の横だったらどこでも」
なんだか武漢に住んでれば全員がみんなある種の重苦しい何かを今も背負っているような気がしていたんですが、当然100%フルパワーでそれだけを背負っている訳ではないわけで、
一足先にコロナ禍を脱出した(といっていいのかしら)武漢に住む老若男女にだって、「来年の予定」がそりゃありますよね。
観終わって思ったのですが
50年後、100年後の教科書に必ず載るであろうこのコロナ禍を、私たち一般人が一人一人何かしらの形で記録していかなければならないんじゃないでしょうか。
記録する人が記録すると、(このドキュメンタリーの論評でも言及されていましたが)「英雄と悪」だけがクローズアップされてしまい、
「私たち」がどのようにあの日々を生きてきたのかは忘れられてしまうんじゃないか、と思うんですね。
だから、少なくとも忘れちゃいけないと思うんですよ。私たちが過ごしたあの日々のこと。