司馬遼太郎の『峠』、読んだのは10年ぐらい前なんですが、めっちゃ好きなんですよ。
読んでるうちに自分が「長岡を救わなくては!!」って気持ちになって、それでも結局継之助の想い虚しく…ってなっちゃうところはもう読みながら泣いてたぐらい、思い入れのある作品でして。
だから映画化すると知った時は嬉しさ半分、「上中下の作品を映画でやり切るのか」不安半分でして。
ということで公開3日目に観てきました。
一言で言うと、不安的中。
以下ネタバレありの感想。
正直辛口な感想です…
時間がないのに余計なシーンが目立つ
舞台設定の説明不足
『峠』の原作は河合継之助が京都に行くぐらいからその最期までを描いているので、当然2時間の映画では終わらないわけです。
映画は黒船襲来を説明した後、大政奉還の場面から始まります。
まずここで疑問なんですけど、大政奉還のシーンってこの映画に必要でしたかね?
大政奉還しました→それでも大久保・西郷は戦争を選びました。(鳥羽伏見→戊辰戦争)
この序章から、河合継之助と長岡藩が戊辰戦争に巻き込まれるまで、映画として間が空きすぎて主人公がおかれている状況がつかみにくい仕上がりとなっています。
『峠』を観るような人たちは、少なくとも大政奉還ぐらいは履修済だろうから、完全に無用シーンになり果ててます。
まぁ、大政奉還って「絵」になるから映像にしたいぞってのはわかるんですけどね。
大政奉還はがっつり時間を割く癖に、映画に直接的に関わってくる奥羽列藩同盟のことは全然説明がないのが導入部分として厳しい。
というか、映画を通して長岡藩が日本列島の中で結局どこにあった藩なのか説明もないので、「奥羽」との地理的距離感もわかりにくい始末。
ここはかなりキツい仕上がりになってしまったなと観ていて思いました。
人物描写ももちろん物足りない
時間切れな舞台設定なので、当然出てくる登場人物もバックがなく、
「継之助と親しくしてるけど、誰?」
というのがかなりいました。
庶民に慕われる継之助→戦いの中での庶民との交流
という、登場人物に再度出てくるフラグを立てていってもらわないと、急に出てき過ぎて感動が薄い。
川で孫の遺体を洗う老人を戦いの中で見かけて、領民の為に尽くしてきた継之助が「俺はこんな風にするために戦っているわけじゃないんだ…」と悔やむ場面、
自分が原作を読んでいて印象に残ったシーンなのですが、これも原作再現があるものの、ぽっと出すぎて映画では無駄に消費されてしまった印象が。
チャージマン研方式
『峠 最後のサムライ』みたんですけど、なんか微妙でした
— ぴーすけ (@pisuke9190) 2022年6月19日
映像作品としてなんか既視感のある違和感を抱くところがあって、これなんだろう…って見終わったあと考えてたんだけど、『チャージマン研!』だわ
『チャージマン研!』で、ジュラル星人をやっつけて一件落着。研たち家から笑い声が聞こえてきて・・・引きの絵が時間調整のためにずっと映されて終わり。
ってあると思うんですけど、これと同じ絵が今作でも見られます。
えっ、山の映像…こんなにいる? ってのが少なくとも2回あった。
うち1回は、只見を抜ける山中の絵なので、継之助の無念さを伝えようとしてたと思われるんですが、
先入観として「長い話を短い話にするわけだから時間が足りない(はず)」というのがある中なので余計悪目立ちしてしまう結果に。
メタネタを時代劇に入れるな
奇しくも同じ司馬遼太郎原作で昨年公開された(いまいち盛り上がらなかった)『燃えよ剣』でも、演者の芸人の持ちネタをブッコんできて、我が家としてはヒエヒエになりました。
今回も河合継之助の妻を演じる松たか子にその台詞言わせたかっただけだろ、ってシーンがあって(そこでの笑顔がこの台詞にはそういう含みあるなって笑い方をしているように見えた…笑)
うーん、はい。
総論
少なくとも大政奉還のシーンはいらないと思う。