「強制収容所にいた連中はいいよな、空襲から逃げ回らずに平和に暮らしてたんだからさ」
前作『ゲッペルスと私』を観ていたので、2作品目である今作も観てきました。
さらっとあらすじ。
今作の語り手である1913年生まれのマルコは、ドイツによるオーストリア併合(アンシュルス)によって熱狂的に反ユダヤ主義へ染まる国から脱出するも、チェコスロバキアで逮捕され、強制収容所に入れられてしまう。
強制収容所から生還後、再びオーストリアに戻り、オーストリアのユダヤ協会会長として活躍する。
この映画はマルコ3歳の頃から、戦後オーストリアに戻るぐらいまでの彼の半生を独白していく、という作りです。
両親と兄妹に囲まれて過ごし、学校の不穏な先生に嫌気がさして、マーケット(これ、正確にはなんて言ってたかな、忘れてしまいました。)で色々な人から良いことも悪いことも学び、青年になればダンスに女の子に熱中し、仕事で成功すればイタリア製の服を着て…
とアンシュルスに至るまでは20世紀前半、戦間期に青春を送る1人の若者であったことを語るマルコ。
彼から語られる、それからの強制収容所での体験は、まさに耳をふさぎたくなることばかり。
ここに載せるのが憚れるような胸が痛くなる強制収容所でのある母子の出来事、かなり強烈でした。
そして自分の中で一番心にずん、と来たのが記事冒頭に残した言葉。
強制収容所からオーストリアに戻ってきた元囚人たちに投げかけられた市民からの言葉として紹介されていました。
(この言葉とナチスドイツを歓迎するウィーンの広場に集まった若者たち熱狂の中に、彼自身も存在していたことで、「オーストリアはナチの最初の犠牲者論」を批判している、かな?)
強制収容所、そのものの話はもちろんおぞましい出来事であることは間違いないのですが、
語りの切れ目切れ目に強制収容所の出来事と、オーストリアの戦争犯罪を追及するマルコのところに送られてくる中傷手紙の内容が披露されます。
強制収容所はなかったとする歴史修正主義者、反ユダヤ主義者からの、彼に向けられる生々しいメッセージの数々。
それが私たちにとって、私にとって恐ろしい。
私たちがTwitterやヤフコメでいつも目にしてしまう表現の自由を明らかに超越しているヘイトスピーチとほぼ一緒
16年日本公開の『帰ってきたヒトラー』の時から世界は何も変わってないし、危ない方向により進んでいるんじゃないかと思う状況です。
マルコは人間の残虐性にも驚きを見せていましたが、
社会全体の不安が極限まで達したとき、自身の安全性を確保するためならば人はどこまでも「やれる」ようになってしまうのではないか、と私は考えます。
それが人類史上で起こったのは、1945年より前の時代のみであった、と言い切るためにも私たちは、ドイツやオーストリアで起こったような社会全体の不安を免罪符とした暴力に常に反対する姿勢でいなければなりません。
内容が内容なだけに、面白い! ぜひ観てください! とは言えないのだけれど、マルコが語ったことが過去のことであり、そして未来のことであるかもしれないという事実に向き合わないといけないと思うんですよね…