今回の寅さんは三行感想ではなく、
「独り」と「孤独」についてを語っていきたいと思います。
家族について
寅さんが旅先で会う民家のおばあちゃんにテキヤ仲間、伊賀の為三郎が旅先で亡くなった後、無縁仏として眠るエピソード。
特にこのおばあちゃんの家が観光地なわけでもなく、物語にその後おばあちゃんが登場するわけでもありません。実際本筋とは関係のないエピソードです。
わかる人にしかわからない例えで言えば、第16作『寅次郎葛飾立志篇』の山形寒河江エピソードで、慈恩寺のお坊さんに学ぶことの意味を説かれるシーンが全くない感じですかね?
けれども、寅次郎夢枕においてこのエピソードが欠かせないものであると言い切れるのは、今作品のテーマが「家族の在り方」だからではないでしょうか。
今回のマドンナ・千代は寅さんの幼友達(余談ですが、今なら幼馴染って言いますけど、寅さんは全然幼馴染って言いませんでしたよね)は一度は結婚し、子供もいて幸せな家庭を築きながらも、現在では離婚し、親権問題からか、子供ともなかなか会えてなさそうで、決して幸せとは言えなさそうです。
そもそも、寅さんを主として家族についてを考えてみても、おじさんおばさんに妹夫婦と、所謂一般的な「夫婦がいて、子供がいる」という形からは離れてはいます。
今回そこに寅さんと千代の結婚の話が絡んできて、特に「家族とは」ということについて考えさせられます。
「独り」と「孤独」について
また、為三郎の死にまつわるエピソードは、寅さんも含め、フーテン暮らしは独りである。というものを語っています。
そのシーンの後すぐに、弟子(?)である登と再会します。そこでどんちゃん騒ぎをし、ある日の朝、別れの言葉を筆にしたためて去っていく寅さん。
ここでも結局は独りであるということが暗示されています。
その独りである象徴である寅さんが、家族を求めながらも、実際にそのチャンスが来れば「ずっこけて」また独りを選び、旅立つというその矛盾を私たちは笑いとして享受しています。
んでもってここで米倉斉加年演じる大学の助教授であり、今作の恋のライバルである岡倉先生を話に出すことにすると、
独りであることは職業に左右されることではなく、人自身に内在するものなのだっていうところでしょうか。
とらやで食卓を皆で囲みながらも、一切話に加わることない岡倉先生はフーテン暮らしとは正反対の大学の助教授という身分も保証された身でありながらも独りです。
しかしながら、「独り」であっても、寅さんは「孤独」ではありません。
さくらがいて、おいちゃんおばちゃんがいて、社長がいて、マドンナもいる。
「家族」の形が普通ではなくても、寅さんは孤独ではありません。
(その対極としての、千代なわけですね)
映画が公開されてから半世紀近くが経ちますが、今はインターネットがあってすぐにつながることができ、「独り」でいるということは稀であるともいえます。
その一方で「孤独」な人は昔よりも増えたのかなと思います。
僕が『男はつらいよ』を好むのは、「独り」であっても「孤独」ではないんだ、ということを笑いを通して優しく語りかけてくれているからかもしれません。