今年17本目の映画です。
昔大学の図書館で、新潮クレスト・ブックスだけを読みまくっていた時期がありまして、
今回見た『ベロニカとの記憶』の原作の『終わりの感覚』も読みました。
たくさん読んだんで中には題名しか覚えてない作品もあるわけですが、
この『終わりの感覚』は印象に残っているいくつかの作品のひとつで、最近になって映画になったのを知ったので、観てみようかな、と。
以下、ネタバレあり。
憎しみをぶつけること(1)
これだけは先に言っておきたいのですが、
親友に彼女を取られ、そのことを報告してきた親友に対して、呪いの手紙を書いてしまうっちゅう話ですが、
でも劇中でもあったように「ちょっと気持ちが高ぶってしまったときにやりがちなこと」であって、
おそらく二股かけられていたとか、こういう目に遭った経験がある人は、
主人公トニーがやってしまったことについて批判できても同情はしているのではないか、100%なんてヤツだ! って言えないのではないかと笑
映画は「終わり」じゃない
映画と原作の違いは、主人公トニーの人生のどのポイントに来ているか、といったところでしょうか。
原作小説のタイトルは「終わりの感覚」(The Sense of an Ending)で、
人生終盤にあって、人生の棚卸をするときに、過去の嫌な出来事に向き合う…
とタイトルのとおりな作品でしたが、
映画では、仲が微妙だった元妻や娘との関係も改善、ラストも孫が店に来て終わり、
と、孫もできて頑張るぞい! なエンディングでした。
原作は真実に気づき、「ファッ?!」ってところで終わりで(確か)、
これがある種トニーにとって最後まで描き切らないことで懲罰的な意味合いを持たせていたと思うんですね。
原作は「過去(の感覚)」それから「現在(終わり)の感覚」だったのが、
映画は「現在に過去の(ベロニカとの)記憶が迷い込んでくる」で
映画らしい構成ですね。ビジュアルであれば場面転換がわかりやすいですし。
元タイトルも『The Sense of an Ending』ではあるみたいなんですが、この日本語題は
アリだと思います。
どう物語に「終わり」をつけるか
親友、エイドリアンの死も主人公トニーにとっては残念だが同情はできない、という感情が高ぶったまま蓋をされてしまい、
主人公の年齢も相まってベロニカとも完全な和解をなすことなく終わってしまいました。
物語の主軸、観客の我々がどこかで期待するのは「トニーに「不幸の手紙」についての懺悔の気持ちを表明してほしい」ってところだと思うんですが、
前述のとおりトニーはそんなことせず、家族への懺悔をして物語はハッピーエンドで終わっちゃうんですよね。
「懺悔はした」
という事実のみ残るのでなんとなく腑に落ちない終わり方ではあるんですけど、
ここで、
エイドリアンが歴史の授業で同じ学校の生徒の自殺について語るシーンで言及されていた、
「歴史は生き残ったものによって記される」
というところに落ち着くんでしょう。ない歴史はないのです。
(と、同時に自死の原因なんて推測でしかわからない、というのもまた事実なのですが)